旧町名をさがす会

かつては東京都内に存在し、そして消えてしまった旧町名。 このページは、行政上は消滅したものの、街角で未だに存在を確認することができた旧町名を紹介するものです。

【杉並區】久我山

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【消滅した年】1969(昭和44)年

【現在の町名】久我山、高井戸西

【町名の由来】久我=空閑(未墾の土地)=新開地

【感想・雑記】新旧町名が同じなので旧町名かと問われたら、それでも旧町名と答えます。區だし。前身の高井戸町時代の字久我山などがあれば旧町名っぽくてよかったけどこれでいいです。區だし。

由来にある通りこの地は原野であり江戸時代は天領となっていたようで、開墾を促進していたのか、重罪の者でもここで農業を営めばその罪が許される旨の御触れが出ていたのだとか。

そして久我山といえば、戦後の混乱期にわずか1年7ヶ月しか存在しなかった「久我山大学」というスピード感溢れる大学があったことが有名です。久我山大学は学校法人久我山学園が運営していた大学ですが、大学の他にも久我山中学校、久我山高校も存在していました。いずれも、久我山大学廃校後に学校法人國學院大学との合併がなされました。それが現在の國學院久我山なのです。

[発見日:令和3年12月29日]

【東京府南葛飾郡】葛西村大字長嶌

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【消滅した年】1932(昭和7)年

【現在の町名】江戸川区東葛西

【感想・雑記】【江戸川区】長島町 - 旧町名をさがす会の前身といいますか、江戸川区自体の前身です。

江戸川区は葛西村の他、松江町、瑞江村、鹿本村、篠崎村、小岩村小松川町の7つの町村が合併して誕生した自治体ですが、この並びを見ると葛西は随分出世したなあとしみじみ思うわけですよ。何目線?

東西線開通前後の当時の写真などを拝見すると開通前は確かに村感溢れる情景が伺えました。確かに葛西村だと。そして、この大字長島は葛西村役場の所在地でもあったそうです。

[発見日:令和3年10月3日]

【葛飾区】金町

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【消滅した年】1968(昭和43)年

【現在の町名】金町、東金町

【町名の由来】不明らしいですが、「かつしかの地名と歴史」という書籍によると、川が大きく曲がる場所を「曲(カネ)」と言ったことから転じて「金」になったなどが挙げられるとのこと。

【感想・雑記】住居表示の実施の際には、旧来の○○町の「町」は使用しないという運用でスタートしたわけですが、その後の改正法によりその運用は緩和されたようです。有楽町が有楽にならなくて済んだのはその改正法のお陰なわけですが、今回の金町もその改正法の恩恵を受けた旧町名の一つなのでしょうか。法改正が無ければ、葛飾区金だったかもしれないね。むしろ金感が際立ちまくって金の町として話題になっていたかも。中央区銀座と姉妹都市になっていたかも。

ちなみに金町の「町」は葛飾区が成立した1932年までは、南葛飾郡金町という自治体としての「町」であったわけですが、さらにその前、1925年は南葛飾郡金町村で、決して金村ではなかったのが面白いです。村から町に昇格した時に金町町になっていたらもっと面白かったのに。

そして、金町は現在も金町な訳でこれを旧町名として扱うのはさすがにどうよと思いました。ですが、東金町エリアで発見したものである点、そして今週水曜日12月8日に、かつしかFMの番組に出演させていただく点を踏まえるとこれは完全に旧町名なのです。

 

そんなわけで告知となり恐縮ですが、以下の番組で旧町名さがしの活動についてや葛飾区の旧町名などについて生放送でお話しさせていただきます。葛飾区以外のエリアの方も、以下の番組ホームページからインターネット上で聴取いただけますので、お時間がございましたら当日は是非お誘い合わせの上ラジオをお聴きください。

【出演情報】

[番組]かつしかFM「ヨルスタ!」

[日時]令和3年12月8日(水)19:30〜19:45頃

[番組ホームページ]ヨルスタ! – かつしかFM 78.9MHz

 

[発見日:令和3年12月4日]

【品川区】西戸越

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【消滅した年】1965(昭和40)年

【現在の町名】戸越

【町名の由来】

・「江戸越え」略して「戸越」

・谷地の狭くて細い通路=谷戸越え略して「戸越」

【感想・雑記】

あの有名な商店街・戸越銀座でお馴染みの戸越ですが、まさか何らかの略だとは思いませんでした。商店街において全国で頻繁に用いられる「○○銀座」の表現ですが、この先駆けがこの戸越銀座なのだそうです。なぜ銀座を用いたか、何となく煌びやかな印象を伝えたかったからか、はたまた銀座に行きたいけど行くには遠いからせめて行った気分を味わうために銀座をつけたという富士講的なやつなのか。そのどちらでもなく、関東大震災で被災した銀座の瓦礫を埋め立ててできたからなんですって。決して富士塚的なやつではありませんでした。

なお、戸越の読み方は「トゴシ」ですが、江戸時代は「トゴエ」だったようです。これは上記も由来の読み方通りですね。

[発見日:令和2年8月9日]

【千代田区】神田駿河台町

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【消滅した年】1969(昭和44)年

【現在の町名】神田駿河台、神田猿楽町、神田三崎町

【町名の由来】徳川家が江戸に呼び寄せた駿河国の家臣団が屋敷を構えた場所

【感想・雑記】これは旧町名ではないですが、今ではあの界隈では貴重な琺瑯製という一点でもう旧町名扱いですよ。最近旧町名のハードルどんどん下がっているよね。せめて神田区駿河台とかであれば確実に旧町名扱いできたろうに。神田区時代でも、1933年まではこの駿河台を冠とする町名が6つも存在していたようです。それが残っていたら良いよね。駿河台袋町、駿河台北甲賀町駿河台南甲賀町駿河台東紅梅町、駿河台西紅梅町、駿河鈴木町。鈴木って。鈴木さんいっぱいいた町かよと思ったら本当らしいよ。鈴木姓の屋敷が多かったのだそうです。もしかしたら鈴木姓の発祥の地ではと思いましたがそれは和歌山県海南市でした。

そして下記の発見日を見ると随分昔に何だなと改めて思いますが、実はその数年前の確か平成15年位に初めて見たような気がします。その頃から本格的に旧町名を探していたらもっと多くの旧町名に出会えていただろうにね。

[発見日:平成19年4月11日]

【杉並區】下高井戸

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【消滅した年】1969(昭和44)年

【現在の町名】下高井戸、永福、上高井戸、大宮、浜田山、高井戸東

【町名の由来】高井家が宮司を務めるお寺のお堂=高井堂

【感想・雑記】旧町名なのかといえば違うかもしれません。単純に現在の下高井戸では無い場所に残っていた点と区が「區」である点を総合的に判断した結果のみなし旧町名のようなやつです。

 

下高井戸があるならもちろん上高井戸もあります。甲州街道内藤新宿に次ぐ宿場であった「高井戸宿」も上下の合宿でした。つまり、高井戸の歴史は上下の歴史でもあるのです。更に現在は上下どころか東西まで追加されてしまっており、更なる混沌が渦巻いている高井戸界隈。その変遷はどうやら集合離散を繰り返しているようです。

 

高井戸村

上高井戸村、下高井戸村

上高井戸村、中高井戸村、下高井戸村

高井戸村

高井戸町

杉並区上高井戸、下高井戸

杉並区上高井戸、下高井戸、高井戸東、高井戸西

 

ざっくりこんな流れのようです。途中に地味に中が発生したり、この変遷の中でわずか1年の間に東京府時代→神奈川県時代→東京府時代があったりします。高井戸の歴史は上下の歴史。上下というからには立地的な上下ではなく、競争としての上下もはっきりさせなければなりません。文字面を捉えると下高井戸が下になってしまうところですが、京王線と東急世田谷線の駅名になっている点で間違いなく下高井戸が上、いや、もはや下高井戸が上高井戸なのではないでしょうか。いや、上下高井戸か。

 

なお、下高井戸駅の住所は世田谷区です。

 

[発見日:令和3年11月20日

【世田谷区】砧町

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【消滅した年】1971(昭和46)年

【現在の町名】砧、成城、大蔵、祖師谷

【町名の由来】朝廷に貢ぐ布を叩いて柔らかくするための道具「きぬいた」

【感想・雑記】昭和7年に世田谷区が誕生した当初は現在の形とは微妙に異なっていました。というのも、世田谷区の前身となる各自治体の内「砧村」と「千歳村」は世田谷区誕生時点ではそれぞれ北多摩郡のままで世田谷区ではなかったのです。なぜ合流が遅れたのか。その経緯は不明だそうですが、そもそも砧村は元々喜多見村、鎌田村、宇奈根村、岡本村、大蔵村が合併して誕生した自治体ですので、もしかしたらその5村を背負っているプライド的なものが許さなかったのかも知れません。結局、遅れること約4年後の昭和11年に世田谷区に編入され、ようやく現在の世田谷区の形に落ち着いたのです。

編入という屈辱を味わった砧。ですが話はここで終わりません。更なる屈辱が砧を襲います。

 

何と、この世田谷区編入と同時に「砧」という町名までも消滅してしまうのです。

砧村の前身である5村は町名として残ったのに、砧だけ消滅。これはもう後から合流した責任を取らされたとしか思えません。親が責任を取って消滅することで5つの子供を守った構図でしょうか。

そんなわけで消滅してしまった砧。実はこの砧という文字を用いる町名は全国でここだけという大変貴重な存在だったらしいのです。その損失に世田谷区が気がついたのでしょうか。昭和30年、世田谷区砧町という町名が誕生し、砧という名前が復活を遂げます。この間19年。合流が4年遅れて19年。その長い謹慎期間の甲斐あって、19年前に消滅した砧「村」が復活によって砧「町」、自治体としての町ではありませんが結果として昇格したような形になります。

村から町になった砧、次は世田谷区から独立して砧「市」誕生か。ですがその勢いは続かずまさかの住居表示の実施による「町」の剥奪。つまり、砧町は16年間しか存在しない町名だったようです。

 

ドラマティックな歴史を辿って今でも町名として存在し続けている砧。もし、昭和7年のあの時に世田谷区に編入していたら。そこには別の物語があったのかもしれません。

[発見日:令和3年11月21日]