はじめに
☆★☆★☆★過去の活動内容☆★☆★☆★
【2004年】
・アルバイト中に文京区駒込追分町、湯島新花町という現町名とは違う何かがあることに気がつく。
【2006年】
・引越し先の向かい側で膨大な新宿区柏木という旧町名の現存を目の当たりにする。都内の旧町名探索開始。
【2010年】
・ブログ『旧町名をさがす会』開設。みちくさ学会に参画・寄稿開始。
【2011年】
・東京お台場の東京カルチャーカルチャーで開催の、みちくさ学会発表会で旧町名さがしの魅力についてプレゼン。《第1回のもよう》、《第2回のもよう》
【2012年】
・デイリーポータルZ『旧町名を探す旅、についていく』で活動紹介。
【2013年】
・NPO粋なまちづくり倶楽部主催『ブラカグラ』で旧町名さがしの魅力と神楽坂地区の旧町名について講義。
【2016年】
・ニッポン放送『能町みね子のTOO MUCH LOVER』に旧町名が好きすぎる人として出演。
【2017年】
・交通新聞社散歩の達人8月号の『上野周辺 消えた町名の痕跡をたどる』で活動紹介。
【2019年】
・日本で唯一の旧町名をさがすためのガイドブック「旧町名をさがす会 入会のご案内」発刊
【2020年】
・ねとらぼ「司書みさきの同人誌レビューノート」で旧町名をさがす会 入会のご案内の紹介
・全国で旧町名をさがすためのガイドブック「旧町名をさがす会 入会のご案内・全国」発刊
・交通新聞社散歩の達人6月号「ご近所さんぽを楽しむ15の方法」で旧町名さがしを紹介
・米粒写経公式チャンネル「書籍講談」で「旧町名をさがす会 入会のご案内」を紹介
【2021年】
・かつしかFM第36回 まりりん、けいたんのヨルスタ! - かつしかFM 78.9MHzに出演。
【2022年】
・読売新聞全国版4月29日「まちなかの絶景」で活動紹介。
【中野区】囲町
【消滅した年】1966(昭和41)年
【現在の町名】中野
【感想・雑記】5代将軍・徳川綱吉の生類憐みの令の言わば代名詞的な「犬屋敷」。または御囲」。江戸市中の野犬を収容した場所が現在のJR中野駅北側です。約93ヘクタール(93万平方メートル)に約10万匹のお犬様が収容されていたそう。ムツゴロウ王国の原型である。
その御囲の名残を伝えるものとして町名に「囲」が用いられましたが、住居表示の実施で中野区中野に。町名が消滅した後も「囲町」の名は町内会名や電柱の札に残り続けてきたわけですが、この御囲エリアでこれから再開発が始まります。建物解体用の柵に囲われているこの皮肉。旧町名共々囲町の運命や如何に。
[発見日:令和4年4月8日]
【目黒区】自由ヶ丘
【消滅した年】1965(昭和40)年
【現在の町名】自由が丘
【町名の由来】この地に開校した「自由ヶ丘学園」
【感想・雑記】元々は荏原郡碑衾村大字衾という地名でしたが、この地域の大地主で当時の碑衾村の村長が自由ヶ丘学園に土地を貸した上に、村長権限で町名をも自由ヶ丘に変えたというのが自由ヶ丘の始まりです。
自由が丘といえばモンブラン。日本で最初にモンブランを提供したお店が自由が丘にあるのです。その名もモンブラン。
え?品ありきの店名なの?店名ありきの品名なの?モヤモヤする。
さらに創業者の名前が迫田千万億。
え?何この結構な初見殺しっぷり。読めなさ具合がモヤモヤする。
加えて、モンブランという「栗」のケーキが始まった自由ヶ丘の町名を付けた村長が「栗山」。
え?村長に寄せて栗使ったの?村長が姓をモンブランに寄せたの?モヤモヤする。
そんなことよりも現町名と旧町名の違い、お分かりになりますでしょうか。そう、「が」と「ヶ」が違うのです。
この微妙すぎる違いは東急線の駅名にも現れており、昭和40年の町名の変更後に「ヶ」を「が」にマイナーチェンジがなされているようです。
駅名といえば、東急線の開業当初は「九品仏駅」でしたが、その九品仏の門前にできた新駅が九品仏駅になったため自由ヶ丘駅に改称した経緯があります。衾駅じゃなくて良かったね。東横線で渋谷から特急乗った時の停車駅アナウンスが「渋谷、中目黒、衾」だったらモヤモヤしっぱなしだったよ。
[発見日:令和4年1月10日]
【足立区】四ツ家町
【消滅した年】1966(昭和41)年
【現在の町名】青井、弘道
【感想・雑記】足立区立郷土博物館のホームページでは、昔の足立区の情景を写した写真を自由に閲覧できるコンテンツがあります。花畑地区にあった牧場や伊興地区での稲刈りの様子、梅島地区の区画整理の様子などなど、昭和の足立区の日常に触れられる大変有益な資料がふんだんに用意されているわけですが、街中が冠水している様子を捉えた写真がやたら充実している点が特にポイントでしょう。
検索トップ | 収蔵資料データベース | 足立区立郷土博物館
各種冠水写真の中で一際目を引いたのが「冠水した四ツ家町」というタイトルのものです。四ツ家町都営住宅入口と記された看板を背景に冠水した道路上で立ち往生しているトラックに搭載された荷物をボートに移し替えている様子が写された写真です。もちろんこれはなんてことはないどの家庭でも見られるごく普通の光景なわけですが、注目すべき点はトラックでもボートでも無く、もちろん荷物を移し替える男たちがたくし上げたズボンでもありません。
何と、この写真には「足立区四ツ家町」という町名が記された琺瑯看板の存在が確認できるのです。解像度的に鮮明ではないのが残念でなりませんが縦書きの「四ツ家町」が目に入ることでしょう。とても貴重なこの琺瑯看板、これがもし今でも残っていたらどれだけ素敵なことでしょう。是非足立区で保存しておいてほしいものです。
そのようなことを考えたり考えなかったりしつつ元号も変わりコロナも流行り月日が流れました。
そして、その縦書きの「四ツ家町」の町名看板がこちらになります。
そう、残っていたのです。
厳密にいうと記された地番的に別看板のようですが、この縦書きの存在感と控えめに横書きの足立区、ほぼ同タイプと言っても良いのではないでしょうか。あとは、この素材が琺瑯かそうでないかは検証が必要でしょう。いずれにしても貴重な旧町名看板が令和のこの時代にも残っていたことが驚きでなりません。あとは足立区に保護保存していただくだけです。
あと、釈迦に説法ですが四ツ家町の現町名の一つ「青井」の由来は、四ツ家町のさらに旧町名である「綾瀬村大字次郎衛門新田小字精出耕地」のうちの「精+耕」の右側です。
[発見日:令和4年1月22日]
【足立区】五反野北町
【消滅した年】1966(昭和41)年
【現在の町名】青井、弘道
【感想・雑記】五反野南町があるなら、もちろん北町もあるわけです。ただし五反野という町名自体は現在は存在しません。北町は上記の青井と弘道、南町も足立と西綾瀬という町名に変わってしまいました。五反野という名前は駅名が有名ですが、平成25年までは南町の方に五反野小学校が存在していました。現在は近隣の小学校との統廃合で足立小学校と名前を変えています。
ところで、五反野の由来はさておき反を広さの単位と捉えた場合、五反野は「五反の野原」なわけですが、果たしてどのくらいの広さをイメージすれば良いのでしょうか。
一反は300坪・およそ991.74㎡ですので、その五倍となると五反は何と4,958.38㎡!つまり五反野を一つの単位と仮定した場合、1五反野あたり4,958.38㎡なのです!ここに新しい単位が誕生しました。明日から、4,958.38㎡は1五反野と覚えましょう。
とは言うものの、いきなり1五反野の広さのイメージがつかないことでしょう。
そこで、五反野駅・青井駅および旧五反野北町・五反野南町エリアにある主な施設等が何五反野あるか換算してみました。
・足立小学校:8,693㎡=約2五反野
・青和ばら公園:1,970㎡=約0.4五反野
・五反野コミュニティ公園:7,130.39㎡=約1.4五反野
・青和コミュニティ公園:5,314㎡=約1五反野
是非参考にしていただくと共に、1五反野はちょうど青和コミュニティ公園相当と覚えてください。
発見日:令和4年1月22日]
【大田区】入新井
【消滅した年】1964(昭和39)年
【現在の町名】大森北
【町名の由来】(大元の自治体としての入新井町)不入斗町+新井宿町の合成
【感想・雑記】入新井の付く小学校が、第一第二第四第五とあるのになぜか第三だけ山王に変更してしまっているでお馴染みの入新井です。由来が合成名称の名残であることは知りませんでしたが、不入斗町を初見で読める人っているのだろうか。この読み方は番組の最後にご紹介します。
さて、この入新井ですが、数年に渡ってちょっとずつ探し回ってようやく全域回ったけど木製のそれっぽいのが一つあるのみで現存が確認できなかったと結論付けた矢先に、大田区入新井が現存していた旨の情報を目にして愕然としました。その場所は3日前に道路を挟んで向かい側を通っていたのです。全域回ったつもりでいましたが、まさかたまたま通っていなかった唯一の場所に残っていたとは!何であの時そこを通らなかったのか。後悔先に立たず、読み方はいりやまず。
[発見日:令和4年1月22日]