旧町名をさがす会

かつては東京都内に存在し、そして消えてしまった旧町名。 このページは、行政上は消滅したものの、街角で未だに存在を確認することができた旧町名を紹介するものです。

【葛飾区】小菅町

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【消滅した年】1968(昭和43)年
【現在の町名】小菅、堀切
【感想・雑記】 東京拘置所のある町として有名な小菅ですが、東京拘置所のあった場所は江戸時代初期に家光から拝領された関東郡代である伊奈氏の屋敷があり、将軍の鷹狩りの休憩所でした。伊奈氏がなんやかんやで領地没収後の江戸後期は幕府所有地として籾蔵や鉄銭の鋳造場があったようです。

そして明治に入って間もなく、明治2年に小菅が大きくクローズアップされることになります。

あの「小菅県」の誕生です。

小菅県は、現在の東京、千葉、埼玉にかけて355もの町村を管轄する巨大自治体であり、県庁があった場所がまさに現在の東京拘置所だったのです。

鳴り物入りで誕生した小菅県はわずか3年間のみ存在したほぼ幻の県名ではありましたが、小菅の名前は日本の歴史に確実に刻まれました。

以上、小菅の歴史は東京拘置所のあの土地の歴史でもあるというお話でした。

そんな、小菅と共にある東京拘置所の最寄駅・小菅駅があるのは葛飾区小菅ではなく足立区です。

[発見日:令和3年4月11日]

【台東区】谷中茶屋町

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【消滅した年】1966(昭和41)年
【現在の町名】谷中
【感想・雑記】 旧町名が現町名当時に東京電力が各戸に設置した謎の標を勝手にデンリヨクと言っています。このデンリヨクの世界では何故か小文字が無効となり全て大文字になってしまうルールがあるっぽいです。その結果が今回のチヤヤなのです。

台東区の旧町名由来板によると、その由来は感応寺という日蓮宗のお寺が江戸幕府の命令で天台宗に改宗させられたことで檀家が超離れて経営難になり、経営の立て直しするために茶屋を作ったそのエリアだそうです。なのでこのチヤヤは文字通り茶屋なのです。感応寺はのちに天王寺と名前を変えていますが、その天王寺も谷中天王寺町という旧町名が存在していました。

谷中天王寺
https://9cm.hateblo.jp/entry/20101223/1293115453


谷中霊園入り口のほんの僅かな区域にも関わらず、デンリヨクとして現存していましたが茶屋らしいものも数軒あるようです。


[発見日:令和2年7月4日]

【墨田区】横川橋

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【消滅した年】1967(昭和42)年
【現在の町名】横川
【感想・雑記】橋があるかないか只それだけのこと。そのはずなんですが意外と残っていなかったりします。全域回って最後の最後で見つけた程です。

墨田区の旧町名には◯◯橋といういわゆる橋シリーズが存在していました。それが以下の5点です。全て実在する橋由来町名です。住居表示の実施を経て、彼らがどのような末路を辿ったか。その分かれまくった明暗を今一度ご確認ください。

横川橋
→現:横川。橋のみ消滅。今回の主役。

業平橋
→現:業平。橋のみ消滅するも、東京スカイツリー誕生に伴い駅名としても消滅。
https://9cm.hateblo.jp/entry/20110411/1302532829

吾妻橋
→現:吾妻橋。駅名と共に現存
https://9cm.hateblo.jp/entry/20160427/1461758294

・江東橋
→現:江東橋。そのままどころか柳原町という旧町名を地味に消滅させる。実は地味に錦糸町駅の所在地。
https://9cm.hateblo.jp/entry/20140115/1389791857

・平川橋
→橋どころか平川含めて完全に消滅。現町名って別に平川でもよかったのでは。
https://9cm.hateblo.jp/entry/20160628/1467122797

[発見日:令和2年11月29日]

【葛飾区】青戸町

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【消滅した年】1967(昭和42)年
【現在の町名】青戸
【感想・雑記】青砥左衛門藤綱という鎌倉北条氏に仕えた武士がこの地に住んでいたことが由来とも言われています。その後青戸となり青戸村を経て明治に入り隣の亀有村などと合併して青亀村が成立。青戸の名前は、昭和7年葛飾区誕生と共に復活したようです。

青戸町時代は4丁目まででしたが、現在の青戸は8丁目まで存在しているため探すエリアが広範囲となり、全域を回る前早々に運良く発見することができました。

[発見日:令和2年12月31日]

【荒川区】尾久町

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【消滅した年】1964(昭和39)年
【現在の町名】西尾久、東尾久
【感想・雑記】荒川区南千住町三河島村、尾久村、日暮里村の4町村が合併して成立しましたが、その時点で旧町村名をそのまま大字(=町名)として採用したため、旧町名が極端に少ない数となっています。

ただ、荒川区成立当初はこの4つに加えて、日暮里渡辺町、旭町という町名も存在していましたが、日暮里渡辺町は1934年に消滅、旭町に至っては1927年〜1932年のわずか6年間しか存在していませんでした。

そんな旧町名不毛地帯荒川区では、たとえ「町」の有無だけの違いとはいえ旧町名というだけで大変重宝されます。

今回の尾久町も貴重な旧町名だけあって、現西尾久+東尾久という広範囲にもかかわらず意外と見つからないという深みにはまって数年が経過しようやく発見できたほどでした。

尾久はJRの駅名にもありますが、駅は「オク」、町名は「オグ」という微妙にも程がある読み方の違いのみならず、あろうことがオク駅の所在地が北区昭和町という有様。

なお、オクかオグかはともかく尾久の由来は江戸の奥説もあるそうですので、この点を踏まえると読み方はオク説が有力と言いたいところです。

[発見日:令和2年12月6日]

【足立区】入谷町

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【消滅した年】1993(平成5)年※
【現在の町名】入谷
【感想・雑記】厳密には今も現存している町名なのです。郵便局ホームページでも121-0834という郵便番号が確認できますし、Googleマップでも表示されています。実は入谷町は舎人公園内の一角に地味に生存しているのです。

今回の入谷町と隣の舎人町は、飛び地に次ぐ飛び地がまるで複雑に入り組んだ現代社会のように相当ガチャガチャしていたようですが、1985年から区画整理という名の鋭いメスを入れたことで町名もついでに入谷町が入谷に変更されたようです。その搾りかすのようなものが今も舎人公園内に残っているという話でした。

この入谷町。公園内なので足立区ホームページで調べても住人は0人ということは判明していますが、他にも面積や地価等気になることが多いので、直ちに優秀な探偵を派遣して入谷町のさまざまな謎や疑問を徹底的に究明したいところです。

[発見日:令和3年1月9日]

【北区】西ヶ原町

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【消滅した年】1976(昭和51)年
【現在の町名】中里、西ケ原
【由来】何らかの西にある原っぱだったんでしょうね。平塚神社のある中里に対しての西という説が有力とか。
【感想・雑記】 一見良くあるタイプの旧町名。現西ヶ原の町があるか無いかの違いだけでしょ?そう思えるほど良くあるタイプの旧町名。

でもこれがとても貴重な旧町名だったことがわかりました。

北区は住居表示の実施以前の1953年に町名整理を実施しており、そのタイミングで西ヶ原町が西ケ原に変更されてました。ただし西ヶ原町は全滅したわけではなく、ごくごく一部だけ西ヶ原町が現存している状態でした。

その後1965年に住居表示が実施されましたがそこでも西ヶ原四丁目は無事で、しばらくは北区西ケ原と北区西ヶ原町が並存する状態が続くのです。

この西ヶ原町の残党は本当にごくごく一部だけに生息していたため現存時代の地図を見てもあったりなかったり、いや、ほとんどなかったりなかったりでした。Twitterで当時の現存が確認できる地図を教えていただくまでは本当に残っていたことさえ疑わしき事項という認識だったくらいです。

そんな地図上すら存在が怪しい西ヶ原町、この令和の時代に残っている訳がないですよね。

あったんですよそれが!

現町名が西ケ原ではなく中里という点がより奇跡を素敵に演出しているかのようでした。

[発見日:令和3年2月21日]