【消滅した年】1932(昭和7)年
【感想・雑記】今月31日まで墨田区で開催している「すみだ向島EXPO」、そのメイン会場的な墨田区京島は、空襲被害を逃れた奇跡的なエリアです。そのおかげで現在も木造長屋や木造住宅、看板建築など、戦前東京中で当たり前に見られたであろう街並みが残り続けています。戦前のままということは、もちろん戦前の様々な遺構が残されているのです。今回のこちらもその貴重な遺構のひとつと言えるでしょう。
発見当初は、「向島区吾嬬町西」当時のものだと思っていました。それでも十分戦前の貴重なものでしょう。ところが、後日ちゃんと調べたところどうやら、その向島区の前身である自治体の1つである「吾嬬町」当時のものということがわかりました。つまり、この「西」自体が町名なのです。
吾嬬町、正式には南葛飾郡吾嬬町は1912年に吾嬬村が町制試行によって誕生します。その後1932年の大東京市成立により、吾嬬町は隣接する寺島町と隅田町とともに合併により向島区が誕生します。実はその向島区成立の2年前に吾嬬町内の大字小字を廃し東及び西一〜九丁目までの大字が設置されるのです。まさに今回のこれは「西四丁目」という自治体としての吾嬬町の大字であることが推測されます。
わずか2年間しか存在しなかった超絶レア町名が現存しているこの事実、壁の色に同化した琺瑯看板は決して語ることも主張することもなく今日もこの場所に佇み続けるのです。戦前からのこのエリアは木造密集地域であることから、密集市街地解消のまちづくりが進みつつあります。この琺瑯看板もいつまで残っているかわかりません。せめて貴重な存在という誇り、残り続けたことに対する労いをしてあげるためにこのように取り上げた次第です。
[発見日:令和2年11月21日]