旧町名をさがす会

かつては東京都内に存在し、そして消えてしまった旧町名。 このページは、行政上は消滅したものの、街角で未だに存在を確認することができた旧町名を紹介するものです。

【足立区】五反野北町

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【消滅した年】1966(昭和41)年

【現在の町名】青井、弘道

【感想・雑記】五反野南町があるなら、もちろん北町もあるわけです。ただし五反野という町名自体は現在は存在しません。北町は上記の青井と弘道、南町も足立と西綾瀬という町名に変わってしまいました。五反野という名前は駅名が有名ですが、平成25年までは南町の方に五反野小学校が存在していました。現在は近隣の小学校との統廃合で足立小学校と名前を変えています。

 

ところで、五反野の由来はさておき反を広さの単位と捉えた場合、五反野は「五反の野原」なわけですが、果たしてどのくらいの広さをイメージすれば良いのでしょうか。

 

一反は300坪・およそ991.74㎡ですので、その五倍となると五反は何と4,958.38㎡!つまり五反野を一つの単位と仮定した場合、1五反野あたり4,958.38㎡なのです!ここに新しい単位が誕生しました。明日から、4,958.38㎡は1五反野と覚えましょう。

 

とは言うものの、いきなり1五反野の広さのイメージがつかないことでしょう。

そこで、五反野駅青井駅および旧五反野北町・五反野南町エリアにある主な施設等が何五反野あるか換算してみました。

 

・サミット五反野店:3,306㎡=約0.6五反野

・足立小学校:8,693㎡=約2五反野

西友青井店:3,279㎡=約0.6五反野

・青和ばら公園:1,970㎡=約0.4五反野

五反野コミュニティ公園:7,130.39㎡=約1.4五反野

・青和コミュニティ公園:5,314㎡=約1五反野

 

是非参考にしていただくと共に、1五反野はちょうど青和コミュニティ公園相当と覚えてください。

 

9cm.hateblo.jp

発見日:令和4年1月22日]

【大田区】入新井

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【消滅した年】1964(昭和39)年

【現在の町名】大森北

【町名の由来】(大元の自治体としての入新井町)不入斗町+新井宿町の合成

【感想・雑記】入新井の付く小学校が、第一第二第四第五とあるのになぜか第三だけ山王に変更してしまっているでお馴染みの入新井です。由来が合成名称の名残であることは知りませんでしたが、不入斗町を初見で読める人っているのだろうか。この読み方は番組の最後にご紹介します。

 

さて、この入新井ですが、数年に渡ってちょっとずつ探し回ってようやく全域回ったけど木製のそれっぽいのが一つあるのみで現存が確認できなかったと結論付けた矢先に、大田区入新井が現存していた旨の情報を目にして愕然としました。その場所は3日前に道路を挟んで向かい側を通っていたのです。全域回ったつもりでいましたが、まさかたまたま通っていなかった唯一の場所に残っていたとは!何であの時そこを通らなかったのか。後悔先に立たず、読み方はいりやまず。

[発見日:令和4年1月22日]

【杉並区】堀ノ内

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【消滅した年】1968(昭和43)年

【現在の町名】堀ノ内

【感想・雑記】字面だけ捉えると、え?変わってなくない案件ですが、旧町名ですよ!

個人情報保護法に定義されている「他の情報と容易に照合することができ、それにより特定の個人を識別することができることとなるもの」的に、もちろん地番やらを写すわけにはいかないため説得力皆無ですが、地番表示なのできっと住居表示実施前なのでしょう。すなわち旧町名ですよ!

そんなことよりも大事なことがあります。まずはこちらをご覧ください。

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そう、堀ノ内なの?堀之内なの?問題です。

もちろんこちらも地番表示があるため旧町名扱いをしたいところです。むしろ「之」の方が字面的に旧町名っぽく思えなくもないです。そうすると「ノ」の方が現町名っぽく思えてしまいます。ただ、新も旧も堀ノ内なのでご注意ください。堀之内は偽物です。

さらにこんなものまであります。

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こちら「の」表記。どちらかと言うと新しい時代の表現のように勝手に思えてしまうため旧町名感は薄いですが、地番表示のため旧町名に錯誤してしまいそうです。ただ、新も旧も堀ノ内なのでご注意ください。堀の内も偽物です。

これらジェネリック旧町名に対しては今後も毅然とした姿勢で注意喚起を行ってまいりますので、このような微妙な文字の違いなども楽しみながらまち歩きをしてみてはいかがでしょうか。

[発見日:令和3年11月20日

【目黒区】緑ヶ丘

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【消滅した年】1965(昭和40)年

【現在の町名】緑が丘

【町名の由来】緑が多い高台だから。緑が丘というニュータウンがあるわけでは無いのです。

【感想・雑記】旧が「ヶ」で新が「が」という、主に目黒区でみられるやつです。そしてその代表格が自由が丘でありこの緑が丘であり、というかそれ以外は知らんわ。

彼らは「ヶが」のみならず、隣接町名、東急線の駅名など多くの共通点を有します。1965年の町名変更の一年後に駅名も合わせて変更されている点まで同じなのです。

唯一異なる点として挙げられるのが駅名誕生のタイミングです。自由が丘は1929年10月に九品仏駅から自由ヶ丘駅に改称、一方緑が丘はそもそも1929年12月に中丸山駅として新設され、1932年の緑ヶ丘という町名の成立後の1933年にようやく緑ヶ丘駅に改称という時系列でした。

その他に緑が丘について語るべき内容があるかどうか現地の様子を思い出しつつ捻り出した事項は東京工業大学の学部によっては大岡山駅よりも緑が丘駅の方が近い、この一点です。それと、緑が丘3丁目だけめっちゃ細いです。油断するとすぐ大田区か世田谷区にはみ出す自分が居ました。区界故にそれ程までの驚きの細さです。

[発見日:令和4年1月10日]

【台東区】上野桜木町

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【消滅した年】1967(昭和42)年
【現在の町名】上野桜木、上野公園
【感想・雑記】もはや台東区寛永寺町と言っても良いレベルに、寛永寺です。戦前と戦後のごく僅かな時期にはこの町域に京成線の駅が存在していました。その名も寛永寺坂駅。最近まで倉庫のような駅舎が存在していましたが現在はセブンイレブンと化してしまっています。450メートル先にも別のセブンイレブンが営業していることから、ドミナント戦略の犠牲になったと言っても良いでしょう。

寛永寺と双璧を成す上野桜木町の象徴といえば、川端康成。文豪界の引越王こと川端氏が最晩年の鎌倉移住直前に居を構えていた場所がこの上野桜木町ですが、何と同じ町内で三度に渡り引っ越しを行なっていることがわかりました。

以下は引越王の輝かしい引越遍歴となります。これからの引越しシーズン、新生活を迎える際の参考にしてみてはいかがでしょうか。

 

川端康成の引越遍歴

浅草區浅草森田町→本郷區向ヶ岡彌生町→豊多摩郡大久保町東大久保→浅草區浅草小島町→浅草區浅草小島町→本郷區根津須賀町→本郷區駒込林町→本郷區駒込林町→本郷區駒込千駄木町→本郷區駒込林町→麻布區宮村町→牛込區市ヶ谷左内町→豊多摩郡杉並町馬橋→熱海→荏原郡入新井町→荏原郡馬込町→下谷區上野桜木町下谷區上野桜木町下谷區上野桜木町下谷區谷中坂町→鎌倉

 

[発見日:令和4年1月4日]

【新宿区】新小川町n丁目

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【消滅した年】1982(昭和57)年
【現在の町名】新小川町
【感想・雑記】神田川江戸川橋方面から飯田橋方面へ向かう途中にエグい角度で突然ほぼ直角に曲がっている場所があると思いますが、そのコーナーの内側部分一帯にあるのが今回の新宿区新小川町です。

かつて存在していた同潤会アパートや前述のコーナー部分にある交番が大曲派出所という明朗な名前でお馴染みの新小川町。旧町名が新小川町で現町名も新小川町。
え?変わって無くない?実は新小川町は、1982年の住居表示実施で丁目が無くなり単独町名になったのだそうです。そうするといくら同じ町名であったとしても旧町名扱いをせざるを得ません。

なお、新小川町というこの町名。何の説明もなくいきなり新が付いてしまっているわけですが、一体何をもっての新なのでしょうか。旧町名が小川町で現町名が新小川町であれば面白かったのですがそんなことはなく、実はこの地は神田小川町の住人の集団移転先という関係性による新なのだそうです。

[発見日:令和4年1月8日]

【目黒區】柿ノ木坂

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【消滅した年】1965(昭和40)年
【現在の町名】柿の木坂
【感想・雑記】現と旧の違いがなんと、のとノの違いだけ。目黒区の旧町名あるあるであまりに有名な「現と旧、がとヶだけ違いがち」に一石を投じた形になりました。

町名の由来はそのまま柿ノ木坂という坂名によりますが、その坂名の由来は安定の諸説ありな訳ですが、目黒区ホームページによると概ね柿にありました。
大きな柿の木があったからだとか、柿の木がよく見える坂だったからだとか、子供が柿を盗んだ=柿抜き=柿の木だとかが挙げられています。
その中で唯一柿に寄らない由来がありました。人家が少なく暗くなると人々が駆け抜けて通った坂=駆け抜け坂=柿の木坂。

まとめると、柿を盗んだ子供が駆け抜けて逃走した坂ということでしょうか。

[発見日:令和4年1月10日]