旧町名をさがす会

かつては東京都内に存在し、そして消えてしまった旧町名。 このページは、行政上は消滅したものの、街角で未だに存在を確認することができた旧町名を紹介するものです。

【世田谷区】深沢町

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【消滅した年】1970(昭和45)年
【現在の町名】深沢、桜新町、新町、駒沢、等々力

【町名の由来】地形由来(深い沢=起伏のある沢)

【感想・雑記】東横線田園都市線大井町線という東急線トライアングルのほぼ中心に、世田谷区深沢という広範囲な町名があります。その広範囲さは8丁目まで存在するほど。ちなみに旧町名の深沢町時代は4丁目までしかありませんでした。倍ですよ倍。

住居表示の実施に関する法律第12条の規定に基づき規定された住居表示の実施基準によると「丁目の数はおおむね4・5丁目程度に留めることが適当であること」と示されています。

そして深沢町は住居表示の実施によって深沢となりました。倍ですよ倍。

もしかしたら裏住居表示法には「ただし、住居表示前に町を有する町名についてはその町と引き換えに任意の丁数を獲得できるものとする。」的な文言があるのかもしれません。何も知らないで今まで生きてた。

 

ちなみに今回の世田谷区深沢8丁目が地味に珍しいと思いましたので東京23区内の全町名の丁目数を調べてみたところ、8丁目町名は僅か36のみ。いや多いわ。さらに8丁目が最大値と思っていたら、その上の9丁目町名も存在していたのです。その数僅か11。

なお、裏住居表示法が適用された感のある8丁目・9丁目の町名一覧は以下の通りですので、今後職場やご家庭で住居表示する機会がありましたら是非参考にしてください。

 

●東京23区内にある8丁目の皆様方(36)

足立区梅田/足立区鹿浜/足立区花畑/荒川区荒川/荒川区西尾久/荒川区東尾久/荒川区南千住/板橋区赤塚/板橋区徳丸/江戸川区一之江/江戸川区西葛西/江戸川区中葛西/江戸川区北小岩/江戸川区南小岩/江戸川区篠崎町/大田区中央/大田区池上/大田区西蒲田/葛飾区立石/葛飾東金町葛飾区青戸/葛飾東新小岩葛飾高砂葛飾区堀切/北区豊島/江東区東砂/品川区西五反田/新宿区西新宿/世田谷区深沢/世田谷区奥沢/世田谷区等々力/世田谷区砧/中央区銀座/練馬区北町/練馬区石神井台/練馬区石神井町

●東京23区内にある9丁目の皆様方(11)

足立区入谷/板橋区高島平/江戸川区東葛西葛飾奥戸江東区亀戸/江東区大島/世田谷区成城/世田谷区喜多見/世田谷区北烏山/練馬区大泉学園町/港区赤坂/

 

[発見日:令和元年5月3日]

【文京区】同心町

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【消滅した年】1966(昭和41)年
【現在の町名】春日、小日向
【感想・雑記】江戸時代の職業由来の町名は今でも千代田区の神田駅周辺に残されていますが、文京区にもかつては江戸の職業由来の多くの町名がありました。その1つが今回の同心町です。同心とは与力に所属した下級武士で、幕府御先手組の同心屋敷があったことから明治に入って同心町と名付けられたそうです。先手組とは、与力・同心による弓組と鉄砲組で構成され、江戸城本丸の諸門警備や将軍外出時の警衛にあたった組織です。与力は、奉行などの幹部クラスの手前、いわば係長クラスと言われておりますので、さらにその配下の同心は主任クラスでしょうか。つまり同心町とは江戸の治安維持を担う職の主任クラスの屋敷が立ち並んでいた町、現代に置き換えると警視庁の単身待機寮のようなイメージかもしれません。

春日通り沿いに沿った細長い町域にもかかわらず奇跡的に現存を確認することができました。江戸の香りがする良い町名です。

[発見日:令和3年7月10日]

【世田谷区】給田町

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【消滅した年】1970(昭和45)年
【現在の町名】給田
【感想・雑記】食を給わるのが給食、水を給わるのが給水、与えて給わるのが給与、そして田を給わるのが給田。その給田町です。仙川駅と千歳烏山駅のちょうど中間に位置し、東京時層地図の範囲外ということもあり存在自体を失念していましたが、しっかりと旧町名が残されていました。

改めて思いますが、本来残しておく必要の無いはずの旧町名をそのままひっそりと残していただいている、これはとてもありがたい話です。まさに旧町名は地域の方からの給わりもの。どうも、給町名をさがす会です。

[発見日:平成31年3月23日]

【目黒区】高木町

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【消滅した年】1966(昭和41)年
【現在の町名】南
【感想・雑記】大岡山駅洗足駅を下車して北に徒歩約10分程度という閑静な住宅街に、南というたいへんざっくりとした町名があります。目黒区内では確かに南側ではありますが、最南端ではないというこの町名には、3つの旧町名が存在していました。目黒区宮ヶ丘、目黒区富士見台、そして今回の目黒区高木町です。

高木町以外の2つは比較的初期に発見できたものの、高木町だけは探せど探せど見つからずという状況が続いていました。これまでの雑な調査が仇となりとにかく見落としが多いことを思い知らされているこの数年を猛省し、GPS記録という文明の利器をフル活用し入念に調査した結果、無事に生存を確認することができました。さて、先ほど登場した現在の目黒区南の旧町名である宮ヶ丘、富士見台。実はこの高木町とは微妙な関係性が伺えるのは私だけでしょうか。私だけでしょう。それでは高木町と彼らの関係性をみていきたいと思います。

(1)高木町↔︎宮ヶ丘

南の町内には「高木神社」という由緒ある神社が鎮座しています。目黒区の前身である碑衾町当時、このエリアは「子ノ神」という小字が付いていたことからも、昔からこの地を守り続けていたことが伺えます。そんな町の守護神の名前が高木町の由来となっているわけです。しかし残念なことに、高木神社が所在するのは高木町ではなく、宮ヶ丘なのです。町名に宮が付くのはそういうことです。

(2)高木町↔︎富士見台

前述の目黒区の前身である碑衾町は、昭和2年に成立し昭和7年に消滅した自治体です。この消滅までの期間中、耕地整理によって昭和5年に誕生し昭和7年に消滅した町名がいくつかあります。その一つが高木町◯丁目です。2年間のみ高木町は一丁目と二丁目が存在していましたが、目黒区の成立によって高木町一丁目は高木町に。そして高木町二丁目が、富士見台なのです。町名に台が付くのはそういうことです。

この高木町が最後まで発見できなかったのは、周辺の町名との因縁じみた関係性由来の怨念的な何かが理由なのでしょうか。でも今回無事発見できたので成仏できたことでしょうから、これからは仲良くやってもらいたいですね。

(全てフィクションであり実在する町内の関係性とは関係ありません。そして町名は実在しません。)

[発見日:令和3年9月25日]

【渋谷区】栄通

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【消滅した年】1970(昭和45)年
【現在の町名】宇田川町、円山町、松濤、道玄坂、神泉町
【感想・雑記】 渋谷区と中野区は◯◯通という通りに沿った町域の町名が存在していました。

この通シリーズは概ね大通り沿いという立地にあるため、当時の建物が消滅している傾向がとても強いことから特に渋谷区の通シリーズの発見は困難を極めます。

ただ、大通り沿いの町域と言っても一歩奥に入ったエリアも少なからず存在しており、今回の栄通もそのような都会のエアポケットのような残り方をしていました。
教えていただきありがとうございました。

[発見日:令和3年5月1日]

【足立区】竹塚町

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【消滅した年】1971(昭和46)年
【現在の町名】竹の塚、保塚町、西保木間、平野、六月
【感想・雑記】
足立区内には史蹟として古墳が残っています。それが入谷古墳跡と白幡塚古墳です。いずれも竹ノ塚駅西側に位置していますが、かつてこの竹の塚のエリアには無数の古墳が存在していたそうです。竹塚の由来はまさにこの古墳で、塚は古墳を指し古墳に竹が生えていたことが由来なんだとか。

そんな、東武スカイツリーラインの駅名でお馴染みの竹ノ塚。駅名は「ノ」、現町名は竹の塚で「の」、そして今回の旧町名は間に何も入らない竹塚です。

竹塚町は、竹ノ塚駅東側エリアのみならず、現在の足立区六月、保塚町、六町あたりにも飛び地として存在していました。それほど広範囲であったにも関わらず、今まで十数年発見することが叶いませんでしたが、ローラー作戦でしらみつぶした結果、古文書かという判別度合いではありますが現時点で僅か1件現存を確認することに成功しました。心で読むのです。

[発見日:令和3年4月18日]

【足立区】五反野南町

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【消滅した年】1964(昭和39)年
【現在の町名】足立
【感想・雑記】 東武伊勢崎線五反野という駅名があります。ただ、五反野という町名は足立区にはありません。五反野駅近くの町名は足立区足立です。東京に来たばかりの人は五反田と間違えかねないこの五反野ですが、かつては町名として足立区に存在していました。
正確には今回の五反野南町と五反野北町です。

今回の五反野南町は五反野駅小菅駅の中間地帯に存在していましたが、一方で五反野北町の方は五反野駅のはるか北東方面、どちらかと言えばつくばエキスプレス青井駅が最寄りという位置関係です。

この五反野という地名の由来は、江戸時代にあった綾瀬村新五郎新田の小字「五段野」と言われています。

なお、五反野は五反田間違われがちですが、実は足立区には五反田という町名も存在しました。五反田の方は伊興町五反田という小字ですが、同時期に五反野と五反田が同じ足立区に併存していたことから、この五反野五反田問題は長年の懸案事項であったことが伺えます。

[発見日:令和3年4月4日]