【消滅した年】1967(昭和42)年
【現在の町名】青戸
【感想・雑記】青砥左衛門藤綱という鎌倉北条氏に仕えた武士がこの地に住んでいたことが由来とも言われています。その後青戸となり青戸村を経て明治に入り隣の亀有村などと合併して青亀村が成立。青戸の名前は、昭和7年の葛飾区誕生と共に復活したようです。
青戸町時代は4丁目まででしたが、現在の青戸は8丁目まで存在しているため探すエリアが広範囲となり、全域を回る前早々に運良く発見することができました。
[発見日:令和2年12月31日]
【消滅した年】1964(昭和39)年
【現在の町名】西尾久、東尾久
【感想・雑記】荒川区は南千住町、三河島村、尾久村、日暮里村の4町村が合併して成立しましたが、その時点で旧町村名をそのまま大字(=町名)として採用したため、旧町名が極端に少ない数となっています。
ただ、荒川区成立当初はこの4つに加えて、日暮里渡辺町、旭町という町名も存在していましたが、日暮里渡辺町は1934年に消滅、旭町に至っては1927年〜1932年のわずか6年間しか存在していませんでした。
そんな旧町名不毛地帯・荒川区では、たとえ「町」の有無だけの違いとはいえ旧町名というだけで大変重宝されます。
今回の尾久町も貴重な旧町名だけあって、現西尾久+東尾久という広範囲にもかかわらず意外と見つからないという深みにはまって数年が経過しようやく発見できたほどでした。
尾久はJRの駅名にもありますが、駅は「オク」、町名は「オグ」という微妙にも程がある読み方の違いのみならず、あろうことがオク駅の所在地が北区昭和町という有様。
なお、オクかオグかはともかく尾久の由来は江戸の奥説もあるそうですので、この点を踏まえると読み方はオク説が有力と言いたいところです。
[発見日:令和2年12月6日]
【消滅した年】1993(平成5)年※
【現在の町名】入谷
【感想・雑記】厳密には今も現存している町名なのです。郵便局ホームページでも121-0834という郵便番号が確認できますし、Googleマップでも表示されています。実は入谷町は舎人公園内の一角に地味に生存しているのです。
今回の入谷町と隣の舎人町は、飛び地に次ぐ飛び地がまるで複雑に入り組んだ現代社会のように相当ガチャガチャしていたようですが、1985年から区画整理という名の鋭いメスを入れたことで町名もついでに入谷町が入谷に変更されたようです。その搾りかすのようなものが今も舎人公園内に残っているという話でした。
この入谷町。公園内なので足立区ホームページで調べても住人は0人ということは判明していますが、他にも面積や地価等気になることが多いので、直ちに優秀な探偵を派遣して入谷町のさまざまな謎や疑問を徹底的に究明したいところです。
[発見日:令和3年1月9日]
【消滅した年】1976(昭和51)年
【現在の町名】中里、西ケ原
【由来】何らかの西にある原っぱだったんでしょうね。平塚神社のある中里に対しての西という説が有力とか。
【感想・雑記】 一見良くあるタイプの旧町名。現西ヶ原の町があるか無いかの違いだけでしょ?そう思えるほど良くあるタイプの旧町名。
でもこれがとても貴重な旧町名だったことがわかりました。
北区は住居表示の実施以前の1953年に町名整理を実施しており、そのタイミングで西ヶ原町が西ケ原に変更されてました。ただし西ヶ原町は全滅したわけではなく、ごくごく一部だけ西ヶ原町が現存している状態でした。
その後1965年に住居表示が実施されましたがそこでも西ヶ原四丁目は無事で、しばらくは北区西ケ原と北区西ヶ原町が並存する状態が続くのです。
この西ヶ原町の残党は本当にごくごく一部だけに生息していたため現存時代の地図を見てもあったりなかったり、いや、ほとんどなかったりなかったりでした。Twitterで当時の現存が確認できる地図を教えていただくまでは本当に残っていたことさえ疑わしき事項という認識だったくらいです。
そんな地図上すら存在が怪しい西ヶ原町、この令和の時代に残っている訳がないですよね。
あったんですよそれが!
現町名が西ケ原ではなく中里という点がより奇跡を素敵に演出しているかのようでした。
[発見日:令和3年2月21日]
【消滅した年】1986(昭和61)年
【現在の町名】富久町
【感想・雑記】 10年以上前に撮ったガラケー時代の写真を漁っていたら3つくらい連続で市谷冨久町の写真が現れました。本来懐かしいなぁでスルーしているところ、その光景から何らかのメッセージを受け取ったような気がして調べましたところ、まだ紹介していなかったことが判明いたしました。昔撮った写真なので当然初期に紹介したものという思い込みと、旧牛込区エリアは基本的に町名変更はされていないという先入観が良くなかった。
先入観といえばもう一つ、最近まで市ヶ谷富久町だと思っていました。市ヶ谷の方は元々は市ヶ谷冨久町でその後市谷冨久町に変わったようなので良しとして、冨久は「久しく富む町」の由来通り富久でも良いじゃないと思ったりします。
ちなみに、今回のこの写真のほかに発見した2点はいずれも市谷「富」久町表記でしたので、これはもうどちらでも良いよね。
あれ?今気がついたけどこの写真、市「ヶ」谷だ。一体何が正解なんだ…
[発見日:平成19年2月]
【消滅した年】1967(昭和42)年
【現在の町名】佃
【感想・雑記】昔の写真を眺めていたら見慣れないデンリヨクが写る写真を見かけました。ガラケーで撮られたものなので画質は言わずもがなですが、それにしても見覚えがない。
ツクトウ?
トウは東の音読みと思われるけど、このエリアで東が付く旧町名として挙げられるのは月島東仲通と月島東河岸とどちらも月島なので違う。そうすると残るのは新佃島東町か…あれそういえばまだ見つけていなかったっけか…
あった!!!
という訳で、既に発見してきた旧町名に11年後気がつくとは思いませんでした。
この旧町名のあった下に掲載の建物は発見当時で既に解体を控えている様な状態でしたのでもうこの世には存在しません。他の新佃島東町が未だに発見できていないため最後の1点だったと考えられます。残念。
[発見日:平成21年5月]
【消滅した年】未詳
【現在の町名】王子本町
【由来】領主の豊島氏が紀州熊野権現から若一王子を勧請して建立した王子神社
【感想・雑記】王子駅の西側、北区区役所一帯の町名は王子本町といいますが、実はその一部分だけ王子町という旧町名が存在していたのです。ただ、この町名がいつ消滅したのかがはっきりしていないようです。手元にある町名変更の資料では昭和41年に王子本町全域で住居表示が実施されたことは記されていますが、肝心の王子町の記載は既にありませんし、Wikipedia大先生の北区町名の項でも「未詳(1966か)」との記載がされています。
なお、東京時層地図の高度成長前夜地図(1955〜1960年)にははっきりと王子町が載っていますので、1960〜1966年の間に王子本町に変更されたのではないかと推測できます。
王子の由来である王子神社こそ岸町ではありますが、もともとは王子村→王子町大字王子という正に王子中の王子と言っても良い場所です。さらに王子區から北区が成立した時点でも北区王子町だったのですが、1956年に突然王子町の大半のエリアが王子本町となり、ごく一部に残った王子町に至っては何となく消滅していたという、このような儚い結末を迎えた王子町。これらの背景を踏まえると、王子町が残っていたことがとんでもない奇跡のように思えてなりません。
[発見日:令和2年12月5日]